市民が作った能楽堂

 横浜能楽堂の「本舞台」は、元々、明治8(1875)年、東京・根岸の旧加賀藩藩主・前田斉泰の隠居所である屋敷の一角に建てられたものです。城下の金沢は、「空から謡が降る」と言われたほど、宝生流の能が盛んな土地柄。斉泰も、こよなく能を愛し、近代の能楽史上の一大事件である明治9(1876)年の「天覧能」の時には、玄人に交り、明治天皇の前で舞ったほどでした。それまでの「猿楽」に代わり「能楽」という言葉を広めた事や明治維新の影響で衰退していた能楽の復興に尽くした事でも知られています。
 しかし、明治中期に斉泰が亡くなった後、暫くして屋敷を整理する事になり、大正8(1919)、同じ宝生流だった旧高松藩藩主の家柄で、伯爵の松平頼寿の屋敷内に移築されました。山手線・駒込駅の近く、染井にあった事から、その後は「染井能楽堂」として広く知られるようになります。
 太平洋戦争での空襲で、東京は甚大な被害を受け、10数か所以上もあった能楽堂はほとんどが焼け、残ったのは4か所だけでした。その中でも、規模が大きく、交通便が良かったのが染井能楽堂。そのため、戦後は、宝生流だけでなく、流儀を超え、盛んに能・狂言が演じられました。
 染井能楽堂は、激動の時代を見詰めた歴史の証人でもあります。昭和20(1945)年8月15日を挟んで、前の14日には戦意高揚のための「戦力能」、後には9月16日に「平和日本再建能」と題した催しが開かれました。また、小津安二郎監督で原節子が主演し、昭和24(1949)年に公開された映画「晩春」にも使われ、二世梅若万三郎が能「杜若」を舞う姿が、長回しの映像に収められています。
 しかし、各流や家の能楽堂が再建されて行く中で、次第に使われなくなって行きました。老朽化もあり、昭和40(1965)年に解体され、部材は、水道橋の宝生能楽堂の地下の一室に保存されました。
 その事を聞いた横浜在住の観世流の能楽師・田邉竹生さんが、宝生流と交渉し、昭和48(1973)年、部材を譲り受けました。これが切っ掛けとなり、田邉さんのもとで稽古をしていた「冨久謡会」の人たちを中心に、能楽堂建設に向けた運動が動き出します。能の稽古をしている各流の人たちが挙って参加する「横浜能楽連盟」を始めとして関係者を巻き込み、運動は拡大。5万人を超える署名に始まり、総額約1億円の募金を集めるなどして、市に能楽堂建設を求めました。
 能楽は、江戸時代には「武家の式楽」とされ、将軍や大名といった一部の階級しかほとんど観る機会がありませんでした。しかし、明治維新後の低迷期を経て、復興して行く中で、稽古人口が増え、裾野は広がって行きます。横浜でも、昭和20年代には、一流の演者が出演する「横浜能」が、稽古をしている市民らの手で開催されるようになりました。これは、江戸時代からの能楽の歴史がある城下町とは違った、開港以来、市民一人ひとりが作り上げた街・横浜らしい催しでした。この文化的な土壌の上に、能楽堂建設運動が熱心に展開されたのです。
 運動が実を結び、平成8(1996)年6月、根岸・染井時代の歴史を引き継いで、横浜能楽堂は開館しました。
 全国各地には、横浜能楽堂「本舞台」よりも古い、江戸時代以前に建てられた能舞台が幾つもありますが、寺社の境内などにあり、一般にはあまり使われていません。その中で、横浜能楽堂の「本舞台」は、能楽堂の中にある舞台としては最も古いものです。誰もが、何時でも自由に使える歴史ある舞台―これこそが、「市民が作った能楽堂」である横浜能楽堂らしい特徴とも言えるでしょう。

  • 復原が進む横浜能楽堂本舞台
    (『復原修理工事報告書』より)
  • 横浜能楽堂本舞台で、能「橋弁慶」を舞う
    田邉竹生さん
    (平成10年9月「横浜能楽堂普及公演」)

トップにもどる