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2017年07月18日 (火) 能楽関連

能作者といけばなのお話

梅雨の季節みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 

時には鬱陶しい雨ですが、
雨に濡れる草木には、何とも言えない趣があります。
季節の移り変わりを感じ、自然のものをあるがままに愛で、受け入れる。
四季のある日本ならではの感情でしょうか。

 

能には草木の精霊が登場します。儚くも美しい存在の精霊たちは、
作者が自然の草木から「生命力」や「心」を感じたからこそ生まれたのではないでしょうか。
今回は、生け花への言及を通して、能作者の花へのある思いが読み取れるお話を紹介します。
世阿弥の娘婿である金春禅竹の孫、金春禅鳳の聞書『禅鳳雑談』に次のような一節があります。

 

・・池ノ坊の花の弟子、花のしほつけの事、細々物語り候。
・・是も、得して面白がらせ候はん事、さのみ面白からず候。
・・(日本思想大系23『古代中世芸術論』引用)

 

華道の池坊のお弟子さんが、花の風情や愛嬌について色々と語っていたとあり、
生け花も意図的に風情を出そうとあれこれ手を加えると、かえって趣がなくなってしまうものだと述べています。

また、次のような記述も…

 

・・花が能に近く候。花と毟り枯らし候はで、そのままに插すやうなるがよく候。
・・結い集めたる花をはらと解き候が、幕うち上候てより埒を破る心にて候。
・・花のしほひし、池の坊申され候。面白く候。

・・枯れ木に苔を続飯にて付けなどする事、嫌にて候。(引用同上)

 

やはり、花を生けるときには意図的に手を加えすぎることなく、自然のままに挿すのがよいとあります。
さらに、束ねていた花をはらりと解く様子は、幕が上がって舞台に上るときの気持ちと似ているとあり、

生け花と能とは表現方法は違えど、本質的な部分でどこか近いものを感じていたようです。

 

禅鳳の作風は、世阿弥や禅竹の「幽玄」に対して、ショー的な「風流能」が多いと言われていますが、
そのような禅鳳だからこそ、奇を衒いすぎることのないよう、その根底には自然のあるがままの美を大切にしていたのではないでしょうか。

 

さて、横浜能楽堂では『禅鳳雑談』から約500年の時を経て、「能」と華道家元池坊の「いけばな」による企画公演が開催されます。 「能」と「花」、それぞれの美しさの競演をぜひお楽しみください。

 

・・横浜能楽堂企画公演「能の花 能を彩る花」全5回 チケット発売中です!

 

こうめ

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