スタッフブログ

2025年03月31日 (月) 能楽関連

「能と神道」~掃部山の横浜能楽堂からみなとみらいのOTABISHOへ~

能と神道の関係性は深い。世阿弥の伝書として特に有名な「風姿花伝」には、能の起源として、天照大神の岩戸隠れの際に神楽を奏し天鈿女命(あめのうずめ)が歌い舞ったことを挙げており、また聖徳太子が「神楽」という字の「神」からつくりを残し「申楽(さるがく)(能楽の古い名称)」と名付けた、とその由来を記している。それが真実かどうかは定かではないが、能、特に「翁」と呼ばれる儀式性の高い演目の成立には、古来より寺社で演じられていた神事芸能の影響が強く残っている。また、世阿弥が所属していた結崎座(ゆうざきざ)(観世座)をはじめとする大和申楽の集団は、奈良・春日若宮や談山神社などでの祭礼で能を演じることが義務となっており、神事の場が、能の発展に大きくかかわってきたことが想像できる。
 
能の演目と神道の関係について言及をすると、能の演目はその曲趣などから5つのジャンルに分類することができるが、「脇能」と呼ばれる神が来臨し、天下泰平や五穀豊穣を予祝する内容の作品が、現在約40曲上演されている。大阪・住吉の老人と兵庫・高砂の老女の夫婦が長寿と和歌の道を説き、住吉明神が悪魔を払い、平和な世を祝福して舞う「高砂」は能の代表的な演目の一つであり、後場(のちば)のワキの待謡(まちうたい)「高砂やこの浦舟に帆を上げて」の一節は、一昔前までは結婚式で謡われるのが定番であった。また、伊勢神宮を舞台とした「絵馬」や、大神(おおみわ)神社を舞台とした「三輪(みわ)」など、伊勢山皇大神宮と関連する作品もある。このような作品が作られたのは、神事芸能としての背景や、当時の能の庇護者であった将軍や貴族といった権力者に当代を讃美する内容が好まれたという政治的配慮も影響しているかもしれないが、戦乱や疫病、災害などで今よりも死が身近であった中世において、神がもたらす平穏な世の中というのは、より切実な願いであったことが反映されているのではなかろうか。
 
さて、そのような650年以上の歴史を誇る能・狂言を上演するための専門劇場である横浜能楽堂は、伊勢山皇大神宮から紅葉坂を隔てた掃部山に平成8(1996)年に開館、今年で28年目を迎える。横浜能楽堂の能舞台(本舞台)は、明治8(1875)年に東京・上根岸にあった旧加賀藩主・前田斉泰の隠居所に作られた舞台を復元したもので、150年近い歴史を持っている。伊勢山皇大神宮が明治3年に創建され150年あまりの歴史があることを考えると、立地といい、歴史といい、親近感が感じられる。
横浜と能・狂言とのかかわりについては、1~3ページ(注1)で伊勢山皇大神宮・小野氏が言及されているので割愛するが、明治時代以降、横浜には財界人を中心に能の稽古するものが増加した。伊勢山皇大神宮内の能舞台建設もその流れを受けたものだが、横浜能楽堂の建設にあたっても横浜の能楽愛好者団体「横浜能楽連盟」を中心とした市民運動(注2)があり、5万人を超える署名や、総額約1億円の募金が集められたことが大きな原動力となっている。
横浜能楽堂は、開館以来、「敷居の低い能楽堂」をコンセプトに多彩な事業を展開してきた。新作の上演や古典作品の演出を工夫しての上演、古典芸能と他ジャンルとのコラボレーション、障がい者も健常者と一緒に能・狂言を楽しんでもらおうと、様々なサポートを準備した「バリアフリー能」や幼いころから狂言に触れる機会を提供する「こども狂言ワークショップ」など、多くの方に能・狂言に親しんでもらえるよう活動を行ってきた。
 
横浜能楽堂は、大規模改修工事のため令和6年1月から令和8年6月まで、2年半の長期にわたり休館している。休館の間は、みなとみらい地区にあるランドマークプラザ5階に移転し、人々が気軽に立ち寄れる能・狂言を紹介する場をひらくこととなった。店舗の名前を決めるために能楽堂スタッフで候補を出し合ったところ、「御旅所(おたびしょ)」はどうだろうかという案が出た。「御旅所」は、神社の祭礼の折、御神体が巡幸の途中で仮に鎮座し、人々と交流される場所のこと。少々恐れ多いネーミングではあるが、能舞台の特徴ともいえる鏡板に描かれた松は、一説に、神の依代であるとされ、春日大社の「影向(ようごう)の松」を写したものだとも言われている。能舞台にいる芸能の神様が掃部山を下り、2年半の間、人々が多く行き交うみなとみらいにやってくる。そして鎮座した御旅所に人々が集い、芸能を楽しむ場となっていく、というストーリーは面白い。最終的にみなともらいの街に合った場所づくりをするとともに、海外からの来訪者にも親しんでもらえるように「OTABISHO」とアルファベット表記にすることになった。
「OTABISHO 横浜能楽堂」は、「見る・知る・体験する・学ぶ」のコンセプトで、能・狂言を紹介する場所で、今まで馴染みのなかった方たちにも興味を持っていただけるような展示・講座などを開催していく予定だ。伊勢山皇大神宮からは少し離れてしまったが、参拝の後は山を下りて、「OTABISHO 横浜能楽堂」にぜひお立ち寄りいただきたい。
また、休館期間中は、「つなぐ つながる」をテーマに市内のホールなどで公演や講座などを開催していく。横浜の各地域に行って人々とつながり、650年以上続いてきた能・狂言を次世代へとつなぎ、より多くの人々に能・狂言を楽しんでもらって再開館へとつないでいく。2年半の期間限定の「祭り」をみなとみらいから盛り上げていきたい。

 

伊勢山皇大神宮社報第二十三号【OTABISHO 横浜能楽堂にて配架中 ※在庫終了の節はご容赦ください】

 

注1:伊勢山皇大神宮社報第二十三号「明治・大正期、伊勢山の能舞台」(執筆 権禰宜 小澤 朗氏)

注2:市民による横浜能楽堂建設運動についてはこちらでもお読みいただけます。


大瀧 誠之(おおたき・のぶゆき、横浜能楽堂プロデューサー)

伊勢山皇大神宮社報第二十三号「能楽」(令和6年5月15日発行)より転載

2025年03月31日 (月) 能楽関連

〈本舞台創建150年記念掲載〉明治初年 能楽の崩壊と復興-梅若実・宝生九郎・前田斉泰を焦点に

今年2025年は、横浜能楽堂の本舞台が創建されて150年という節目の年となります。10年前の創建140年に開催した企画公演「明治八年 能楽の曙光」のプログラムノートを、節目を記念して掲載します。


江戸時代、幕府の式楽として保護されてきた能・狂言。演じる役者たちは武士の身分と扶持を与えられ、ただ芸道に邁進するだけでよかった。しかし、慶応4年、江戸幕府は終焉を迎え、能役者はこれまで保証されてきた生活基盤、そして演じる場を失ってしまう。幕臣をから明治新政府の朝臣となった者、徳川慶喜を慕って駿河へ下った者、浪人となって他の職業に就いたもの、様々であったが、貧苦の危機に瀕した者が少なくなかった。

 

「謡の声でもしたら、外から石を投げ込まれる」と言われ、能を演じることもままならなかった時代。そのような状況下でも、芸道を捨てなかった者もいた。その代表が梅若実である。梅若家は江戸時代、観世大夫のツレ家筆頭とされた家柄。実は金融業を営む鯨井家の長男であったが、梅若家の養子に入り家督を相続した。養父が華奢好みで放蕩を尽くしたこともあり、若い頃から様々な苦難に見舞われたが、それを克服し、明治維新の混乱にあっても、厩橋の自宅にある杉板割の二間幅の舞台で明治2年頃から袴能を一般に公開し始めた。当初は、揚幕の布もなく、風呂敷で代用するほどであったが、徐々に環境を整え、明治4年には旧篠山藩主・青山家の舞台を譲り受け、檜舞台を手に入れる。こうして能の再興に向けた兆しが見え始めた頃、さらなる協力者が必要であると感じた梅若実は、板橋に住む宝生九郎のもとを訪れる。
 
宝生九郎は十六世宝生宗家。32才で幕府の崩壊に遭った九郎は、能の前途を悲観し、芸の道を捨て隠居。商売や農業などに従事していた。実は、九郎に舞台復帰するよう勧める。九郎も一度は捨てた道と容易には承諾しなかったが、実の熱心さに心動かされ、明治6年8月に梅若舞台で袴能「高野物狂」を舞う。そして、明治8年には、梅若舞台で三度、能を舞っている。その一つが、11月21日に実のツレで演じた「蝉丸」である。
 
世の中が落ち着きを見せ始めると、かつての保護者であった華族たちの間にも能を再び保護奨励しようとする動きが出る。その中心人物の一人が、前田斉泰である。前田斉泰は加賀藩第十三代藩主。前田家は代々宝生流を嗜み、役者を多く抱えてきた。斉泰もまた能に深く傾倒し、廃藩置県に伴い東京へ移住した後も、能役者を支援、また三宅庄市や野村与作といった旧所領の役者を東京に招請し、能の復興に尽力した。また自身も宝生流十五代宗家の宝生弥五郎友于に師事し、能を多く舞っている。現在の横浜能楽堂の舞台となっている根岸・前田斉泰邸の舞台も、能好きの斉泰の老後を慰めるために家臣が相談して建てたといわれる。明治8年4月3日の舞台披きは、梅若実らが出演して華々しく催され、斉泰も「高砂」、「安宅 延年之舞」、祝言「岩舟」の三番を舞っている。
 
明治6年、岩倉具視が欧米視察から帰国すると、ベルリンで観たオペラと同様に能を国楽として位置づけ、国賓をもてなす際に用いようと考える。そしてその権威づけのため、明治9年4月に明治天皇の岩倉邸への行幸の際に能を天覧に供することになった。その際、岩倉は前田斉泰に相談。斉泰は梅若実に裁量を一任し、これを好機と捉えた実は、自身や斉泰らが出演する番組に臨時の御入能として宝生九郎による半能「熊坂」を加えたという。この催しの成功が契機となり、宝生九郎は本格的に舞台復帰。また天皇や皇族の行幸啓や、国賓を迎える際には能を上演することが通例となり、その後、能は本格的な復興へと進む。その象徴とも言える明治14年の能楽社の設立と芝能楽堂の開場にも、梅若実、宝生九郎、前田斉泰が大きく関わっており、斉泰の発案により「能楽」という言葉が用いられたと言われている。
 
これまで三人に焦点を当て、明治初年の能楽の歩みに触れたが、実際には、もっと多くの役者の奮闘や支援者の存在があってこそ復興は成り立っている。また一般的に明治期の能の歴史の中で、明治8年が取り上げられることは少ない。宝生九郎と梅若実による「蝉丸」も、当時、当時しばしば行われた人的都合による異流共演の一つとも考えられる。しかし、「蝉丸」が、宝生九郎をもう一度復帰させたいと願う梅若実の熱意により上演され、それが二人の信頼をさらに強くし、翌年の岩倉邸での天覧能に繋がっていることは、想像に難くない。また、前田斉泰邸の舞台も、当初は華族邸宅の舞台の一つとして建てられたが、その後、第二次大戦後の能楽の復興の拠点となる染井能舞台となり、現在は、横浜能楽堂の舞台として数多くの能が演じられることとなるのである。明治の復興、そして今日まで続く能楽の存在の端緒を明治8年の実・九郎・斉泰に求める見方も、また可能なのではなかろうか。
 
本日の公演が今年、幾つか重なった異流共演の舞台の一つなのか、あるいは、また別の意味を持ってくるのかは、まだ分からない。能楽の危機と再興の歴史と共に140年を生きてきた舞台が、その行く末を見つめていくのだろう。


大瀧 誠之(おおたき・のぶゆき、横浜能楽堂プロデューサー)

平成26(2015)年12月23日 横浜能楽堂舞台140年祭 横浜能楽堂企画公演「明治八年 能楽の曙光」パンフレットより転載

2023年09月03日 (日) 能楽関連

「夏休み能楽こども相談室」を開設しました

横浜能楽堂では夏休みにあわせて、

能楽についての質問に横浜能楽堂のスタッフがメールでお答えする「夏休み能楽こども相談室」を開設しました。

能楽堂での公演鑑賞やワークショップを体験して疑問に思ったこと、

自由研究や宿題に取り組む中で、能・狂言や能楽堂についてわからないと感じたことを受け付けました。

皆さまのご参加、ありがとうございました! ※現在は受付を終了しています。

いただいた質問をいくつかご紹介します。

 

〇狂言には昔の話しかないの? 新しいお話を作らないの?

→上演される機会は少ないですが、新しいお話は、現代でも作られています。マンガを題材としたものもあります。

 

〇どうして歩き方が決まっているの?

→昔からの歩き方を取り入れて作られているからです。

能・狂言には「型(かた)」と呼ばれる動き方の決まりがあり、

立ち方や座り方、歩き方、扇の使い方など細かい決まりがあります。

その「型」を決められた通り、無駄な動きをせず行うため、決まった歩き方になります。

 

〇昔も立派な衣装だったの?

→能・狂言で使用する衣裳のことを「装束(しょうぞく)」と呼びます。

現在使用されている「装束」が完成されたのは、今から約300年前、江戸時代だと考えられています。

江戸時代には能・狂言は江戸幕府の式楽(公式行事に演じられる芸能)となり、

将軍や大名たちが、当時の武家の美意識や精神性を反映させた能・狂言専用の「装束」を作りました。

それより以前は、「小袖」と呼ばれる当時、日常に着られていた着物などが用いられていたようです。

 

〇動画に大昔のことは残っていないけれど、どうして昔のままできるの?

→能・狂言は「口伝(くでん)」と呼ばれる、人から人へと直接に芸を継承する方法が取られています。

「謡本(うたいぼん)」と呼ばれるセリフや歌い方を記した台本や、

「型付(かたつけ)」と呼ばれる動き方などを記した書物が昔から受け継がれていますし、

現在では過去の動画や音源などを見て学ぶこともあります。

ただ、基本的には師匠から弟子へ、そしてまた次の世代へと直接教えを受けることで、

謡い方や、動き方だけでなく、細かな間合いや心の持ち様など、表面的には分からない部分まで学んでいます。

もちろん、昔のまま、600年以上変わっていないこともたくさんありますが、

各時代の影響や代々の人たちが工夫を加えることによって、少しずつ変化もしています。

そういう意味では、現代に生きる芸能と言えます。

 

 

この他にもたくさんの興味深いご質問、ありがとうございました。

横浜能楽堂は大規模改修工事のため、

令和6(2024)年1月から令和8年6月頃までの約2年6か月間、全館休館いたします。

休館前の横浜能楽堂にお越しいただけるのもあと4か月。

公演・ワークショップ・施設見学などをご用意して、皆様のご来館を心よりお待ちしております。

 

2022年11月04日 (金) 能楽関連

能楽師(狂言方)が案内する横浜能楽堂見学と狂言ワークショップ『太郎冠者、あれこれ』を開催しました

10月29日(土)に能楽師(狂言方)が案内する横浜能楽堂見学と狂言ワークショップ『太郎冠者、あれこれ』を開催しました。

案内役は狂言方大蔵流の山本則重さん・則秀さんです。ご参加いただきました皆さま、ありがとうございました。

当日の様子をご紹介します。

 

まずは本舞台の前で、狂言や「太郎冠者」についてお話を伺いました。

 

狂言の登場人物の中で代表的なキャラクターである「太郎冠者」は、「これはこの辺りに住まいいたす者」と名乗ります。

狂言の登場人物はどこにでもいる人間。見る人は自分自身に重ね合わせて鑑賞してほしい、という理由からだそうです。

時に人間の愚かなところも表現する狂言ですが、それを悪として暴露するのではなく、「誰にもこういうところあるよね」「自分もそうかな」と思わせるのです。

人間の誰もが持っている感情を笑いにして見せる、狂言の面白さを知ることができました。

 

その後、山本則重さん・則秀さんの実演で狂言「千鳥」の一部を鑑賞しました。

 

あの手この手を使って何とか酒樽を持ち帰ろうとする太郎冠者と、酒屋の主人とのやりとりが見どころです。

 

鑑賞の後は白足袋に履き替えて楽屋に移動し、葛桶(かずらおけ)についてお話を伺いました。

 

狂言には色々な小道具がありますが、中でも葛桶はさまざまなものに見立てられます。

狂言「千鳥」では酒樽に見立てた葛桶をひもで引っ張る場面がありますが、その準備として葛桶にあらかじめひもを巻いておく様子も見せていただきました。

舞台上で斜め方向から引っ張っても倒れないよう、結ぶ位置、結ぶ強さ、結び方にも工夫をしているのだそうです。

 

お話の後は、舞台の上で体験です。

まずは「太郎冠者の構え」を教えていただきました。ひざを折って腰を低くする、「腰を入れる」という姿勢です。

構えができたら、今度はすり足で歩いてみます。

 

次は声を出して「笑う」と「泣く」も体験してみました。

近くにいてうるさくなく、遠くまでよく聞こえるような声が理想だそうです。難しいですね。

どちらも皆さま元気いっぱいに声を出していただきました。

 

アンケートでいただきましたコメントを紹介いたします。

・楽しい時間でした。裏方のお話も聞かせていただいて、次回の鑑賞の時、なお一層楽しくなると思います。

・実体験に基づいた説明がとても面白かったです。また、舞台での演技体験も楽しかったです。

・2時間たっぷりと狂言の太郎冠者にまつわりお話をして頂きましてありがとうございました。多くの知識を頂きました。大変に丁寧にまた熱意を持って先生方にはお話頂いてさらに能楽に興味が湧きました。

 

来年には、3日間で狂言のお稽古と発表会を行う「おとな狂言ワークショップ」も開催します。

1日では足りない!という方、今回参加できなかった方、応募をお待ちしております。

詳細はこちら

2022年10月21日 (金) 能楽関連

「能楽師(太鼓方)が案内する横浜能楽堂見学と太鼓ワークショップ」を開催しました

2022年10月15日、「能楽師(太鼓方)が案内する横浜能楽堂見学と太鼓ワークショップ」を開催しました。

講師は太鼓方金春流の梶谷英樹さんです。

当日の様子をご紹介します。

 

初めに、本舞台で梶谷さんのデモンストレーションを鑑賞しました。

太鼓の音と掛声のみ、お一人での演奏ですが、その迫力に圧倒され、思わず息を止めて見入ってしまいます。

鑑賞の後は、能舞台や能の歴史、囃子方の4種の楽器についてお話を伺いました。

笛・小鼓・大鼓・太鼓の4種の楽器のなかで、太鼓はリーダーであり指揮者役です。能の後半のメインの場面で活躍するそうです。

太鼓の出番は小鼓や大鼓に比べると少ないですが、限られた時間で他の囃子方と息を合わせなければならないので、打つ数が少ない曲ほど大変なのだそう。

ちなみに能楽の世界では「楽器」とは呼ばず、楽器を敬い「道具」と呼ぶそうです。

 

その後は白足袋に履き替えて楽屋に移動し、舞台裏を見学しました。

また、囃子方と同じように「橋掛かり」から本舞台へあがり、舞台の上で能舞台の説明を伺いました。

主人公を演じるシテ方が、自分の位置の目印にするための「目付柱」や、能が屋外で演じられていたときにレフ版の効果を生んでいたという、舞台の周りの白い石「白洲」など、能舞台はよく考えて作られていることがわかります。

 

後半は、楽屋で太鼓の組み立て見学と太鼓体験です。

太鼓は牛の革と欅の木の胴、縦と横の調べ緒(紐)で出来ています。現在は樫の木の台に太鼓を置きますが、昔は台がなく、「太鼓持ち」という職業があったそうです。

体験では、小の撥(ばち)、中の撥、大の撥の打ち方と掛け声をお稽古しました。

お稽古体験の後には、一人ずつ舞台に上がり太鼓を打ちました!

出番を待つ参加者の皆さまから緊張が伝わってきました。

歴史ある横浜能楽堂本舞台での演奏体験はいかがでしたでしょうか。ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。

 

アンケートでいただきましたコメントを紹介いたします。

・舞台で太鼓を打たせてくださるなんて思いもしませんでした。先生のご説明もとてもわかりやすく、本当に楽しかったです。能楽を違う角度から見ることができ、よかったと思います。

・プロの方直々に丁寧に教えてくださり、感動いたしました。舞台に上がったのも初めてでありがたい経験をさせていただき嬉しかったです。

・大好きな横浜能楽堂の舞台に立ち、楽屋でお稽古をつけていただき、本舞台で自分の太鼓の音をきき、夢のようです。

 

来年には、3日間で太鼓のお稽古と発表会を行う「3日でマスター!」も開催します。

1日では足りない!という方、今回参加できなかった方、応募をお待ちしております。

詳細はこちら

2022年02月23日 (水) 能楽関連

横浜能楽堂催し物案内『橋がかり』2022年3月~4月を発行しました。

横浜能楽堂では館内で行われるイベントなどを掲載した情報紙を月一回定期発行しています。
今月号(2022年3月~4月)は3月から5月の主催公演と施設利用料金割引プラン等の情報を掲載しています。

 

施設利用料金割引プラン
「初めての朝割」・「初めてのU25割」・「応援割」

横浜能楽堂をより多くの方々にご利用いただくために、「初めての朝割」・「初めてのU25割」・「応援割」の3つの利用料金割引プラン(割引は最少1,000円から最大10,200円)をご用意しております。美しい和の空間で、お稽古はいかがですか。
※各プランの詳細・申込方法についてはお問い合せください。

 

<割引プランの種類>
■「初めての朝割」
当館のご利用が初めてのお客様対象の割引サービスです。年齢に関わらず平日午前のご利用が対象です。
■「初めてのU25割」
若い世代にもっと日本の伝統芸能に親しんでいただくための割引サービスです。大学能楽サークル等の25歳以下の初めてのご利用を対象とします。
■「応援割」
横浜能楽堂主催の「こども狂言ワークショップ」等にご参加の皆さまの自主稽古を応援。より能楽に親しんでいただけるようワークショップ受講中から終了後3か月まで割引料金でご利用いただけます。

 

施設利用について詳しくはこちら

 

『橋がかり』2022年3月~4月はこちら

 

はぜの木

2022年01月31日 (月) 能楽関連

横浜能楽堂催し物案内『橋がかり』2022年2月~3月を発行しました。

横浜能楽堂では館内で行われるイベントなどを掲載した情報紙を月一回定期発行しています。

今月号(2022年2月~3月)は2月から6月の主催公演と2月から3月に開催する見学会の情報等を掲載しています。

 

春の施設見学日

紅葉坂を登って、横浜能楽堂にお越しになりませんか?

横浜市の文化財に指定されている能舞台だけでなく、普段は入れない楽屋まで、ガイド付きでたっぷりご案内します。

 

 

◇日時:令和4年3月29日(火)①14:00~15:00 ②19:00~20:00

◇内容:能舞台と舞台裏見学

◇定員:各回20人(先着順)

◇参加費:無料

◇申込方法:令和4年2月11日(金)14:00から電話・HP・来館で受付。

(初日は電話・HPのみ)

※靴を脱いで見学する場所があります。靴下等をご持参ください。

詳しくはこちら

 

『橋がかり』2022年2月~3月はこちら

 

はぜの木

2021年12月26日 (日) 能楽関連

横浜能楽堂催し物案内『橋がかり』2022年1月~2月を発行しました。

横浜能楽堂では館内で行われるイベントなどを掲載した情報紙を月一回定期発行し、他の公共施設や友の会会員様向けに送付しています。

今月号(2022年1月~2月)は1月から3月の主催公演と1月から2月に開催する見学会の情報等を掲載しています。

 

横浜・紅葉ケ丘まいらん連携事業

2022年1月23日(日)10:00〜15:00

横浜能楽堂近隣の文化施設5館が連携して紅葉ケ丘周辺の魅力を発信する「まいらん」のイベントです。

「つくってあそぼう!横浜市民ギャラリーのアトリエがやってくる!」(会場:横浜能楽堂2階 旧レストランスペース)、「まいらんさんぽで音楽堂クイズ!」(会場:神奈川県立音楽堂ミーティングルーム)他。参加費無料で気軽にお楽しみいただけます。

詳しくはこちら

 

『橋がかり』2022年1月~2月はこちら

 

はぜの木

2021年12月22日 (水) 能楽関連

「日本画(板絵)体験と横浜能楽堂見学」を開催しました。

令和3年12月10日(金)に「日本画(板絵)体験と横浜能楽堂見学」を開催しました。
講師は日本画家の武田裕子さん。横浜能楽堂の能舞台にある「鏡板」を見ながら、墨、胡粉(ごふん)、白緑(びゃくろく)を使って葉書サイズの板に梅を描きました。
ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。当日の様子をご紹介します。

 

まずは杉・檜・樅など数種類の板から好きな板を選んで下絵を描きます。

 

次に絵の具のつくり方の説明です。
墨は武田さんの愛用の丸い硯で摺ります。
胡粉は牡蠣の貝殻の裏側から作った粉に水と溶かした膠を混ぜて練っていきます。そして練って丸めた胡粉を小皿に何度も何度も叩きつけます。「百叩き」いう言葉があるそうで、これがなかなか大変な手間です。

 

 

 

胡粉について参加者からこんな質問があり、武田さんにお答えいただきました。

 

Q1. なぜ胡粉は叩くのですか?
A1. 空気を抜いて膠と胡粉が混ざりやすくするためです。

 

Q2. なぜ胡粉が絵具の材料に選ばれたのですか?
A2. 白には鉛の白、白土などありますが、それらの中では胡粉はふわっとした感じで白の発色が鮮やかで柔らかい雰囲気なので、その質感が好まれたのではないかと思います。また、加工のしやすさ、地理的に入手がしやすかったことから室町時代から白の主流でした。

 

手間ひまかけて絵の具の準備ができたらいよいよ色をつけていきます。枝は墨で描き、その上に「垂らしこみ」という技法を使い白緑で苔を表現します。

 

花びらに仕上げの金と白緑を載せるためには胡粉の部分を乾かす必要があるため、その時間を活用して能楽堂見学をしていただきました。

 

見学から戻り、乾いた白い胡粉の上に梅の花のしべを描いて仕上げです。

 

仕上がった作品は、枝がとても繊細な方、花をたくさん咲かせた方、お手本に忠実に描いた方などなど、皆さま、それぞれに個性がありました。背景の板の木目も一枚として同じものはありませんから、世界で1枚だけの作品に仕上がりました。

 

アンケートにも多数ご協力いただきありがとうございました。一部をご紹介します。

 

・大変分かりやすく教えていただき、とても楽しかったです。舞台裏ツアーも貴重な体験でした。板も種類が選べて嬉しかったです
・絵の具のつくりかたから能や狂言のことまで幅広く見て知ることができてとても有意義な時間でした。日本画のストイックさと大変さは本当にすごかったです。
・日本画の武田先生はとても人当たりの素敵な方でどんな質問にも答えていただいて、日本画の奥深い凄い世界についての一端を知ることができました。他の参加者の方も勉強熱心な感じの方が多く質問されている内容からも色々な知識を知ることができて良かったです。

 

講師の武田さん、お手伝いをいただいた横浜市民ギャラリーの大岩さん、平町さん、そしてご参加いただいた皆さま、本当にありがとうございました。またの機会にお会いできるのを楽しみにしております。

 

はぜの木

2021年12月03日 (金) 能楽関連

横浜能楽堂催し物案内『橋がかり』2021年12月~2022年1月を発行しました。

横浜能楽堂では館内で行われるイベントなどを掲載した情報紙を月一回定期発行し、他の公共施設や友の会会員様向けに送付しています。
今月号(2021年12月~2022年1月)は12月から3月の主催公演と12月から2月に開催するワークショップ・講座の情報他を掲載しています。

 

横浜能楽堂特別展「開館25周年舞台写真展」
横浜能楽堂開館25周年を記念して、これまでに開催してきた公演の中から、名人たちによる珠玉の舞台や人気の高かった公演など、記録写真から厳選し展示しています。
25年の足跡を振り返りつつ、横浜能楽堂の歴史や能・狂言をはじめとする古典芸能の魅力をお楽しみください。
詳しくはこちら

 

「おとな狂言ワークショップ」
「お稽古」というと、少し敷居が高そうに思われるかもしれませんが、まずは気軽に狂言のお稽古を楽しんでいただけるのが、この「おとな狂言ワークショップ」です。
体を動かして適度な運動、セリフを覚えて脳トレ、声を出してストレス発散、表現力のアップなどなど、狂言のお稽古には健康に良いことがたくさんあります。また、実際にやってみることで狂言をもっと楽しめるようになります。ぜひこの機会に、ご参加ください!
詳しくはこちら

 

『橋がかり』2021年12月~2022年1月はこちら

 

はぜの木

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