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2020年05月20日 (水) 能楽関連

復刻「能楽質問箱」第6回~第12回をお届けします

5月3日からスタートしました復刻「能楽質問箱」。
まだまだ続きますので、引き続きどうぞお楽しみください。

 

 

Q6.戦後間もなくのころから能を見ている者ですが、最近能楽堂へ行くと、おしゃべりをしたり、袋の中からあめ玉を取り出したりするなど、観能のマナーを知らない方が見受けられるようになり、とても残念です。正しい観能の仕方を教えてください。

 

A6.芸能の種類によっては、食べ物を食べたり、周りの人とワイワイやりながら楽しむ、というものもあるでしょうが、能はやはり静かな中で、出演者も、観客も舞台に集中できる状態で行うものです。
ご質問にもあるような、おしゃべりや見所への食べ物、飲み物の持ち込みはもちろん遠慮してください。帽子も特別な理由が無い限り、取った方が良いでしょう。
開演時間に遅れ、もう能が始まってしまっていた場合には、演能のじゃまにならないよう、タイミングを見計らって席に着きましょう。
拍手の仕方にも配慮しましょう。昔は「能は拍手をしないもの」と言われていましたが、最近ではどこの能楽堂でも皆拍手をしています。しかし、シテやワキが幕に入らないうちに拍手をするのは早過ぎます。入って幕が降りてからにしましょう。
(季刊『橋がかり』第2号(平成10年4月)掲載)

 

・・・ひと言
今から約20年前に寄せられた質問なのですが、まるでつい先日の質問のようです。正しい観能の仕方は、永遠のテーマかもしれません。(はぜの木)

 

Q7.昔、ある神社にある能舞台の床下を覗く機会があり、そこに瓶が埋められていたのを覚えています。横浜能楽堂本舞台の床下にも埋められているのでしょうか?

 

A7.確かに昔の能舞台の床下には、素焼きの瓶が埋められていました。これは、よく「響きをよくさせるため」と言われますが、正しくは「響きを丁度よく調整するため」のものです。能舞台は、ただ無闇に「響けばよい」というものではないからです。しかし、横浜能楽堂を始めとして最近の能舞台は、室内に建てられ床下もコンクリートで覆われているため、埋めることができません。そのため瓶の代わりに、構造を工夫するなどして音の調整をしています。
(季刊『橋がかり』第2号(平成10年4月)掲載)

 

・・・ひと言
施設点検の際に横浜能楽堂の本舞台の床下を覗いたことがあります。確かに瓶(甕)はなくコンクリートの基礎でした。ただし、単なる基礎ではなく音響設計をした基礎であるとのことでした。能楽堂によっては瓶を埋めてある床下もあり、施設見学のコースになっている所もあるようですね。(はぜの木)

 

Q8. 能舞台の正面にある「キザハシ」が使われるのは見たことがありません。いったい何のためにあるのでしょうか?

 

A8.確かに、今では「キザハシ」を使うことはありません。稀に演者が舞台下に落ちた時、ここから上がることがありますが、もちろんこれは本来の使い方ではありません。
では、何のためにあるのでしょうか。明治以前、能が「武家の式楽」だった時代には、演能が終わると観客である将軍や大名から能役者に対し褒美が与えられました。このころの能舞台は野外にあり、舞台と見所は白州を間に別棟にありました。そのため、褒美を渡す使いの者は「キザハシ」を使って白州から舞台に上がったのです。
しかし能楽が一般の人達が自由に見ることができる芸能になった現在では、こういった使われ方はされなくなり、形式的な存在として残っているに過ぎませんが、演者が舞台から正面を向いた時、「キザハシ」の両端が見えるので、目安にしています。
(季刊『橋がかり』第3号(平成10年7月)掲載)

 

・・・ひと言
能舞台が野外にあった頃の建築様式の名残の一つとして、個人的にはとても興味深いと感じます。橋掛りとともに本舞台には2つの「ハシ」があるわけですね・・・。(はぜの木)

 

Q9.これまで数回しか能を見たことがないのですが、先日見たものは誰も能面をつけていませんでした。そのような曲目は多いのでしょうか?

 

A9.質問にあったような能面をつけない曲目を「直面物(ひためんもの)」と言います。多くは主人公が現実の男性です。
代表的な曲としては、「安宅」「鉢木」「小督」「夜討曽我」「橋弁慶」などがあります。
しかし、面を付けていなくても「付けているつもりで演じなければならない」というのが能楽師の心得だと言われています。
(季刊『橋がかり』第3号(平成10年7月)掲載)

 

Q10.能の史跡めぐりをしたいのですが、手初めに神奈川県内から回ろうと思っています。どんなところがあるか教えてください。

 

A10.まず横浜市内では「放下僧」の舞台となった金沢区の瀬戸神社、同じく「六浦」の舞台となった称名寺があります。
「横浜と能」というと現在のイメージから想像すると掛け離れた感じがするかもしれませんが、金沢の辺りは鎌倉時代には対岸の房総半島などから船で物資が着く所。物資は金沢を経て陸路で鎌倉方面へと運ばれたのです。交易の要衝として賑わいをみせていたのです。
神奈川県内では、そのほかに鎌倉が「千手」「鉢木」「盛久」、富士の裾野が「小袖曽我」、真鶴が「七騎落」にゆかりがあります。
(季刊『橋がかり』第3号(平成10年7月)掲載)

 

Q11.先日、友人と二人で薪能に行って楽しい一時を過ごして来ました。薪能のルーツを教えてください。

 

A11.薪能のルーツは、二月に行われる奈良・興福寺の修二会に際し、興福寺、春日大社一帯で繰り広げられた「薪猿楽」と呼ばれる神事猿楽にあります。その始まりは平安中期と言われます。明治維新の混乱で途絶えてしまいましたが、近年復活し修二会とは関係なく五月に行われるようになりました。
現在、全国のあちらこちらで開催されている「薪能」は、「新猿楽」とはまったく別個のもので、多くは町おこしや観光を目的として企画されたもの。その先駆けとなったのは昭和二十五(一九四九)年に平安神宮で第一回が開かれた「京都薪能」です。その後、高度経済成長、バブル経済などの時代背景の中で増えて行きました。
能楽堂で見るのとは違いイベント的なので、初心者でも気軽に触れることができます。
神奈川県内で毎年行われている主な薪能は次の通りです(※)
5月 川崎大師薪能 6月 三浦漁火能 7月 横浜薪能 8月 平塚八幡宮神事能、よこすか薪能、寒川神社薪能、相模原薪能、あつぎ環境芸術薪能、遊行寺薪能 10月 鎌倉薪能、小田原城薪能、大山火祭薪能、大和薪能、さいわい’98ふれあい薪能、東海大学欅能など
(季刊『橋がかり』第4号(平成10年10月)掲載)
※1998(平成10)年10月年時点の情報です。最新情報をご確認ください。

 

Q12.能と歌舞伎は関係があると聞きます。どの様な関係なのか教えてください。

 

A12.歌舞伎は先行芸能である能の影響を受けています。しかし、技法的な面では地唄舞や沖縄の組踊の方が影響を色濃く受けています。歌舞伎は、能の曲目を取り入れ、それを換骨奪胎させ独自の世界を作り出していると言って良いでしょう。
能から取った歌舞伎の演目は鏡板の異名である松羽目にからめて「松羽目物」と呼ばれています。代表的なものとしては、能「道成寺」「安宅」、狂言「花子」からそれぞれとった「京鹿子娘道成寺」「勧進帳」「身替座禅」などがあります。
横浜能楽堂では、今年の十一月から来年の三月にかけて七回にわたり講座「能の周辺」を開催します(※)。一流の講師陣の話を前提に、地方能、組踊、里神楽、地唄舞、文楽などの実演を見るほか、講師と歌舞伎役者との対談なども行われます。
(季刊『橋がかり』第4号(平成10年10月)掲載)
※1998(平成10)年11月22日、12月6日、1999(平成11)年1月10日、23日、2月14日、3月7日、14日に開催しました。

 

第1回~第5回はこちら

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