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2025年03月31日 (月) 能楽関連

「能と神道」~掃部山の横浜能楽堂からみなとみらいのOTABISHOへ~

能と神道の関係性は深い。世阿弥の伝書として特に有名な「風姿花伝」には、能の起源として、天照大神の岩戸隠れの際に神楽を奏し天鈿女命(あめのうずめ)が歌い舞ったことを挙げており、また聖徳太子が「神楽」という字の「神」からつくりを残し「申楽(さるがく)(能楽の古い名称)」と名付けた、とその由来を記している。それが真実かどうかは定かではないが、能、特に「翁」と呼ばれる儀式性の高い演目の成立には、古来より寺社で演じられていた神事芸能の影響が強く残っている。また、世阿弥が所属していた結崎座(ゆうざきざ)(観世座)をはじめとする大和申楽の集団は、奈良・春日若宮や談山神社などでの祭礼で能を演じることが義務となっており、神事の場が、能の発展に大きくかかわってきたことが想像できる。
 
能の演目と神道の関係について言及をすると、能の演目はその曲趣などから5つのジャンルに分類することができるが、「脇能」と呼ばれる神が来臨し、天下泰平や五穀豊穣を予祝する内容の作品が、現在約40曲上演されている。大阪・住吉の老人と兵庫・高砂の老女の夫婦が長寿と和歌の道を説き、住吉明神が悪魔を払い、平和な世を祝福して舞う「高砂」は能の代表的な演目の一つであり、後場(のちば)のワキの待謡(まちうたい)「高砂やこの浦舟に帆を上げて」の一節は、一昔前までは結婚式で謡われるのが定番であった。また、伊勢神宮を舞台とした「絵馬」や、大神(おおみわ)神社を舞台とした「三輪(みわ)」など、伊勢山皇大神宮と関連する作品もある。このような作品が作られたのは、神事芸能としての背景や、当時の能の庇護者であった将軍や貴族といった権力者に当代を讃美する内容が好まれたという政治的配慮も影響しているかもしれないが、戦乱や疫病、災害などで今よりも死が身近であった中世において、神がもたらす平穏な世の中というのは、より切実な願いであったことが反映されているのではなかろうか。
 
さて、そのような650年以上の歴史を誇る能・狂言を上演するための専門劇場である横浜能楽堂は、伊勢山皇大神宮から紅葉坂を隔てた掃部山に平成8(1996)年に開館、今年で28年目を迎える。横浜能楽堂の能舞台(本舞台)は、明治8(1875)年に東京・上根岸にあった旧加賀藩主・前田斉泰の隠居所に作られた舞台を復元したもので、150年近い歴史を持っている。伊勢山皇大神宮が明治3年に創建され150年あまりの歴史があることを考えると、立地といい、歴史といい、親近感が感じられる。
横浜と能・狂言とのかかわりについては、1~3ページ(注1)で伊勢山皇大神宮・小野氏が言及されているので割愛するが、明治時代以降、横浜には財界人を中心に能の稽古するものが増加した。伊勢山皇大神宮内の能舞台建設もその流れを受けたものだが、横浜能楽堂の建設にあたっても横浜の能楽愛好者団体「横浜能楽連盟」を中心とした市民運動(注2)があり、5万人を超える署名や、総額約1億円の募金が集められたことが大きな原動力となっている。
横浜能楽堂は、開館以来、「敷居の低い能楽堂」をコンセプトに多彩な事業を展開してきた。新作の上演や古典作品の演出を工夫しての上演、古典芸能と他ジャンルとのコラボレーション、障がい者も健常者と一緒に能・狂言を楽しんでもらおうと、様々なサポートを準備した「バリアフリー能」や幼いころから狂言に触れる機会を提供する「こども狂言ワークショップ」など、多くの方に能・狂言に親しんでもらえるよう活動を行ってきた。
 
横浜能楽堂は、大規模改修工事のため令和6年1月から令和8年6月まで、2年半の長期にわたり休館している。休館の間は、みなとみらい地区にあるランドマークプラザ5階に移転し、人々が気軽に立ち寄れる能・狂言を紹介する場をひらくこととなった。店舗の名前を決めるために能楽堂スタッフで候補を出し合ったところ、「御旅所(おたびしょ)」はどうだろうかという案が出た。「御旅所」は、神社の祭礼の折、御神体が巡幸の途中で仮に鎮座し、人々と交流される場所のこと。少々恐れ多いネーミングではあるが、能舞台の特徴ともいえる鏡板に描かれた松は、一説に、神の依代であるとされ、春日大社の「影向(ようごう)の松」を写したものだとも言われている。能舞台にいる芸能の神様が掃部山を下り、2年半の間、人々が多く行き交うみなとみらいにやってくる。そして鎮座した御旅所に人々が集い、芸能を楽しむ場となっていく、というストーリーは面白い。最終的にみなともらいの街に合った場所づくりをするとともに、海外からの来訪者にも親しんでもらえるように「OTABISHO」とアルファベット表記にすることになった。
「OTABISHO 横浜能楽堂」は、「見る・知る・体験する・学ぶ」のコンセプトで、能・狂言を紹介する場所で、今まで馴染みのなかった方たちにも興味を持っていただけるような展示・講座などを開催していく予定だ。伊勢山皇大神宮からは少し離れてしまったが、参拝の後は山を下りて、「OTABISHO 横浜能楽堂」にぜひお立ち寄りいただきたい。
また、休館期間中は、「つなぐ つながる」をテーマに市内のホールなどで公演や講座などを開催していく。横浜の各地域に行って人々とつながり、650年以上続いてきた能・狂言を次世代へとつなぎ、より多くの人々に能・狂言を楽しんでもらって再開館へとつないでいく。2年半の期間限定の「祭り」をみなとみらいから盛り上げていきたい。

 

伊勢山皇大神宮社報第二十三号【OTABISHO 横浜能楽堂にて配架中 ※在庫終了の節はご容赦ください】

 

注1:伊勢山皇大神宮社報第二十三号「明治・大正期、伊勢山の能舞台」(執筆 権禰宜 小澤 朗氏)

注2:市民による横浜能楽堂建設運動についてはこちらでもお読みいただけます。


大瀧 誠之(おおたき・のぶゆき、横浜能楽堂プロデューサー)

伊勢山皇大神宮社報第二十三号「能楽」(令和6年5月15日発行)より転載

2025年03月31日 (月) 能楽関連

〈本舞台創建150年記念掲載〉明治初年 能楽の崩壊と復興-梅若実・宝生九郎・前田斉泰を焦点に

今年2025年は、横浜能楽堂の本舞台が創建されて150年という節目の年となります。10年前の創建140年に開催した企画公演「明治八年 能楽の曙光」のプログラムノートを、節目を記念して掲載します。


江戸時代、幕府の式楽として保護されてきた能・狂言。演じる役者たちは武士の身分と扶持を与えられ、ただ芸道に邁進するだけでよかった。しかし、慶応4年、江戸幕府は終焉を迎え、能役者はこれまで保証されてきた生活基盤、そして演じる場を失ってしまう。幕臣をから明治新政府の朝臣となった者、徳川慶喜を慕って駿河へ下った者、浪人となって他の職業に就いたもの、様々であったが、貧苦の危機に瀕した者が少なくなかった。

 

「謡の声でもしたら、外から石を投げ込まれる」と言われ、能を演じることもままならなかった時代。そのような状況下でも、芸道を捨てなかった者もいた。その代表が梅若実である。梅若家は江戸時代、観世大夫のツレ家筆頭とされた家柄。実は金融業を営む鯨井家の長男であったが、梅若家の養子に入り家督を相続した。養父が華奢好みで放蕩を尽くしたこともあり、若い頃から様々な苦難に見舞われたが、それを克服し、明治維新の混乱にあっても、厩橋の自宅にある杉板割の二間幅の舞台で明治2年頃から袴能を一般に公開し始めた。当初は、揚幕の布もなく、風呂敷で代用するほどであったが、徐々に環境を整え、明治4年には旧篠山藩主・青山家の舞台を譲り受け、檜舞台を手に入れる。こうして能の再興に向けた兆しが見え始めた頃、さらなる協力者が必要であると感じた梅若実は、板橋に住む宝生九郎のもとを訪れる。
 
宝生九郎は十六世宝生宗家。32才で幕府の崩壊に遭った九郎は、能の前途を悲観し、芸の道を捨て隠居。商売や農業などに従事していた。実は、九郎に舞台復帰するよう勧める。九郎も一度は捨てた道と容易には承諾しなかったが、実の熱心さに心動かされ、明治6年8月に梅若舞台で袴能「高野物狂」を舞う。そして、明治8年には、梅若舞台で三度、能を舞っている。その一つが、11月21日に実のツレで演じた「蝉丸」である。
 
世の中が落ち着きを見せ始めると、かつての保護者であった華族たちの間にも能を再び保護奨励しようとする動きが出る。その中心人物の一人が、前田斉泰である。前田斉泰は加賀藩第十三代藩主。前田家は代々宝生流を嗜み、役者を多く抱えてきた。斉泰もまた能に深く傾倒し、廃藩置県に伴い東京へ移住した後も、能役者を支援、また三宅庄市や野村与作といった旧所領の役者を東京に招請し、能の復興に尽力した。また自身も宝生流十五代宗家の宝生弥五郎友于に師事し、能を多く舞っている。現在の横浜能楽堂の舞台となっている根岸・前田斉泰邸の舞台も、能好きの斉泰の老後を慰めるために家臣が相談して建てたといわれる。明治8年4月3日の舞台披きは、梅若実らが出演して華々しく催され、斉泰も「高砂」、「安宅 延年之舞」、祝言「岩舟」の三番を舞っている。
 
明治6年、岩倉具視が欧米視察から帰国すると、ベルリンで観たオペラと同様に能を国楽として位置づけ、国賓をもてなす際に用いようと考える。そしてその権威づけのため、明治9年4月に明治天皇の岩倉邸への行幸の際に能を天覧に供することになった。その際、岩倉は前田斉泰に相談。斉泰は梅若実に裁量を一任し、これを好機と捉えた実は、自身や斉泰らが出演する番組に臨時の御入能として宝生九郎による半能「熊坂」を加えたという。この催しの成功が契機となり、宝生九郎は本格的に舞台復帰。また天皇や皇族の行幸啓や、国賓を迎える際には能を上演することが通例となり、その後、能は本格的な復興へと進む。その象徴とも言える明治14年の能楽社の設立と芝能楽堂の開場にも、梅若実、宝生九郎、前田斉泰が大きく関わっており、斉泰の発案により「能楽」という言葉が用いられたと言われている。
 
これまで三人に焦点を当て、明治初年の能楽の歩みに触れたが、実際には、もっと多くの役者の奮闘や支援者の存在があってこそ復興は成り立っている。また一般的に明治期の能の歴史の中で、明治8年が取り上げられることは少ない。宝生九郎と梅若実による「蝉丸」も、当時、当時しばしば行われた人的都合による異流共演の一つとも考えられる。しかし、「蝉丸」が、宝生九郎をもう一度復帰させたいと願う梅若実の熱意により上演され、それが二人の信頼をさらに強くし、翌年の岩倉邸での天覧能に繋がっていることは、想像に難くない。また、前田斉泰邸の舞台も、当初は華族邸宅の舞台の一つとして建てられたが、その後、第二次大戦後の能楽の復興の拠点となる染井能舞台となり、現在は、横浜能楽堂の舞台として数多くの能が演じられることとなるのである。明治の復興、そして今日まで続く能楽の存在の端緒を明治8年の実・九郎・斉泰に求める見方も、また可能なのではなかろうか。
 
本日の公演が今年、幾つか重なった異流共演の舞台の一つなのか、あるいは、また別の意味を持ってくるのかは、まだ分からない。能楽の危機と再興の歴史と共に140年を生きてきた舞台が、その行く末を見つめていくのだろう。


大瀧 誠之(おおたき・のぶゆき、横浜能楽堂プロデューサー)

平成26(2015)年12月23日 横浜能楽堂舞台140年祭 横浜能楽堂企画公演「明治八年 能楽の曙光」パンフレットより転載

2025年01月21日 (火) 横浜能楽堂について

能・狂言の魅力を伝え続ける 横浜能楽堂 150年近い歴史を誇る本舞台

横浜能楽堂 玄関正面

 

 横浜能楽堂をご存じですか。ご存じの方が大半だと思いたいのですが、「能楽堂ってなに?」という方もいらっしゃるでしょう。説明させてください。室町時代から650年以上にわたり継承されてきた日本の古典芸能である能・狂言を上演する専門の劇場です。

 横浜のような進取の精神に富む街と能楽堂は、ミスマッチだと感じる読者がおられるかもしれません。けれども、能について言えばことのほか横浜との関係は深く、記録として残る横浜での最初の上演は、今から150年以上前となる明治6(1873)年です。

 貿易港として発展を遂げた横浜で財をなした者の中には、能の稽古をしていた向きも多く、横浜財界の象徴的人物で横浜松坂屋の創業者としても知られる茂木惣兵衛もその一人です。明治23(1890)年には、そうした財界人らの働きかけで、伊勢山皇大神宮(横浜市西区)に能舞台が建設されています。

 横浜能楽堂の建設をめぐっては、横浜の能楽愛好者でつくる団体「横浜能楽連盟」が中心となり、能楽堂の建設を求める市民運動が昭和48年に動き出し、5万人を超える署名や、総額約1億円の募金が集められたそうです。

 そうした経緯を経たうえで平成8年にようやく、開館に至ったのです。それ以来、「敷居の低い能楽堂」をコンセプトに、障がい者も健常者と一緒に能・狂言を楽しんでもらおうと、「バリアフリー能」を企画したり、幼い時分から触れ合う機会を提供する「こども狂言ワークショップ」といった普及活動に取り組んできました。

 能・狂言と他ジャンルとをコラボレーションさせた企画性や創造性の高い公演など、多彩な活動にも力を注いでいます。

 これまで、多くの方に来場していただいた一方、いまだ足を運ばれていない方もたくさんいます。これからはそういった方にも、能・狂言の魅力を伝えていけるようなプログラムができればと思っています。

 現在、横浜能楽堂は、大規模改修工事のため、令和8年6月まで休館しています。その間、能楽堂は使えませんが、多くの方に能・狂言の魅力を発信する良い機会と考え、「つなぐ つながる」をテーマに、横浜市の各所で公演や講座などを開催していきます。

 18日には、横浜ランドマーク(横浜市西区)と隣接したショッピングモール「ランドマークプラザ」内に、能・狂言を気軽に親しめるスペース「OTABISHO 横浜能楽堂」をオープンします。祭礼の折、神様が一時的に休憩される場所「御旅所」になぞらえ、命名しました。

 横浜能楽堂が再開館したときには、能・狂言を鑑賞したいと多くの方の心が動くよう、休館中も走り続けます。


(横浜能楽堂プロデューサー 大瀧誠之)

令和6年4月12日(金) 産経新聞(朝刊)神奈川版 コラム「アートでつなぐヨコハマ」(7)転載

2023年09月03日 (日) 能楽関連

「夏休み能楽こども相談室」を開設しました

横浜能楽堂では夏休みにあわせて、

能楽についての質問に横浜能楽堂のスタッフがメールでお答えする「夏休み能楽こども相談室」を開設しました。

能楽堂での公演鑑賞やワークショップを体験して疑問に思ったこと、

自由研究や宿題に取り組む中で、能・狂言や能楽堂についてわからないと感じたことを受け付けました。

皆さまのご参加、ありがとうございました! ※現在は受付を終了しています。

いただいた質問をいくつかご紹介します。

 

〇狂言には昔の話しかないの? 新しいお話を作らないの?

→上演される機会は少ないですが、新しいお話は、現代でも作られています。マンガを題材としたものもあります。

 

〇どうして歩き方が決まっているの?

→昔からの歩き方を取り入れて作られているからです。

能・狂言には「型(かた)」と呼ばれる動き方の決まりがあり、

立ち方や座り方、歩き方、扇の使い方など細かい決まりがあります。

その「型」を決められた通り、無駄な動きをせず行うため、決まった歩き方になります。

 

〇昔も立派な衣装だったの?

→能・狂言で使用する衣裳のことを「装束(しょうぞく)」と呼びます。

現在使用されている「装束」が完成されたのは、今から約300年前、江戸時代だと考えられています。

江戸時代には能・狂言は江戸幕府の式楽(公式行事に演じられる芸能)となり、

将軍や大名たちが、当時の武家の美意識や精神性を反映させた能・狂言専用の「装束」を作りました。

それより以前は、「小袖」と呼ばれる当時、日常に着られていた着物などが用いられていたようです。

 

〇動画に大昔のことは残っていないけれど、どうして昔のままできるの?

→能・狂言は「口伝(くでん)」と呼ばれる、人から人へと直接に芸を継承する方法が取られています。

「謡本(うたいぼん)」と呼ばれるセリフや歌い方を記した台本や、

「型付(かたつけ)」と呼ばれる動き方などを記した書物が昔から受け継がれていますし、

現在では過去の動画や音源などを見て学ぶこともあります。

ただ、基本的には師匠から弟子へ、そしてまた次の世代へと直接教えを受けることで、

謡い方や、動き方だけでなく、細かな間合いや心の持ち様など、表面的には分からない部分まで学んでいます。

もちろん、昔のまま、600年以上変わっていないこともたくさんありますが、

各時代の影響や代々の人たちが工夫を加えることによって、少しずつ変化もしています。

そういう意味では、現代に生きる芸能と言えます。

 

 

この他にもたくさんの興味深いご質問、ありがとうございました。

横浜能楽堂は大規模改修工事のため、

令和6(2024)年1月から令和8年6月頃までの約2年6か月間、全館休館いたします。

休館前の横浜能楽堂にお越しいただけるのもあと4か月。

公演・ワークショップ・施設見学などをご用意して、皆様のご来館を心よりお待ちしております。

 

2023年07月08日 (土) 公演情報

正倉院御物から復元された古代の楽器の音色とは?!(8/5 横浜能楽堂「中締め」特別公演 第1回「芝祐靖の遺産」)

(↑平安時代の舞楽などの様子が描かれた巻物より。どんな音色だったのでしょうか…?)

 

8月5日に横浜能楽堂で、雅楽演奏団体の伶楽舎を迎えて「芝祐靖の遺産」と題した公演を開催します。
故・芝祐靖(しば・すけやす)さんは、800年余の歴史ある雅楽の家出身。宮内庁楽部で活躍した後、伶楽舎(れいがくしゃ)を創立しました。笛の名手であるだけでなく、数多くの作曲を手掛け、雅楽の世界に革新をもたらした人物です。

 

芝さんが生前関わった大きな仕事のひとつに、古代の楽譜の解読・復曲や、現在は廃絶してしまった古代の楽器の復元作業があります。今回の公演で取り上げる芝さんの作品2題のうちのひとつ、「敦煌琵琶譜による音楽」は、その取り組みの代表作。1,000年以上前、唐代末~五代頃につくられたとされる「琵琶譜」(約100年前に中国・敦煌で発見されたもの)をもとに復元された楽曲群です。

今回の公演では、その中から、以下の8曲を上演します。
『急胡相問(きゅうこそうもん)』
『傾盃楽(けいばいらく)』
『風香調 調子(ふうこうちょう ちょうし)』
『西江月(さいこうげつ)』
『伊州(いしゅう)』
『長沙女引(ちょうさじょいん)』
『急曲子(きゅうきょくし)』
琵琶独奏『傾盃楽』

 

これらの作品は、正倉院御物から復元された古代の楽器のために作られました。
正倉院には、「排簫(はいしょう)」や「箜篌(くご)」など、現在は廃絶してしまった多数の楽器が残っており、芝さんはその復元作業に携わった一人。古代の音楽の「復元」とはどのようなものなのか、横浜能楽堂YouTubeチャンネルで、芝さん本人によるお話と、排簫の実演がご覧いただけます。動画の最後で、『急胡相問』の一部もお聴きいただけます。

 

8月5日の公演では、ほかにも珍しい古代の復元楽器が勢揃い!
以下、「敦煌琵琶譜による音楽」で使う楽器を一挙にご紹介します。
各楽器の紹介文は、CD『芝祐靖の音楽 復元正倉院楽器のための「敦煌琵琶譜による音楽」』(伶楽舎) のブックレット解説「使用楽器について」(宮丸直子さん執筆) をもとに構成させていただきました。
(写真提供:伶楽舎 ※写真の無断転載を禁ず)

 

排簫(はいしょう)

18本の竹を縦に並べたパンフルートの一種。
正倉院に残る「甘竹簫(かんちくしょう)」から復元しました。
芝さん本人による実演映像はこちら(前述と同じ動画です)

 

笙(しょう)・竽(う)

17本の細い竹を縦に束ねた楽器で、そのうち15本の根本にフリーリードが付き、吹き口から息を吹き入れたり吸ったりして音を鳴らします。正倉院には現行の楽器と同型の笙が3管残っています。
竽は笙と同型の楽器で、笙より1オクターブ低い音域を奏します。(写真は竽)

 

横笛(よこぶえ)

現在雅楽で用いられている龍笛のルーツ。現行楽器とは違い、竹に穴をあけただけの素朴なつくり。正倉院には、竹のほかに、玉や象牙で竹を模した管があり、計4管残っています。

 

篳篥(ひちりき)・大篳篥(おおひちりき)・メイ

正倉院には遺品はありませんが、古くは大小の別があり、現行の篳篥は「小篳篥」にあたるとされています。記録にのみ残る「大篳篥」を、低音域を奏する楽器として復元。本曲では、さらに低音域を奏する同類のダブルリード楽器として、トルコのメイも使用します。(写真は上からメイ、大篳篥、篳篥)
実演映像はこちら

 

正倉院尺八(しょうそういんしゃくはち)

正倉院には、竹以外に大理石、象牙、蛇紋岩など合計8管もの尺八が残っています。これらは現在の尺八よりも小型で、指孔の数も中世以降に伝わった尺八とは異なるため、他の尺八と区別するために正倉院尺八と呼んでいます。

 

箜篌(くご)

竪型のハープ。正倉院には2張の残欠のみが伝わっています。
破損部分を補い復元すると、脚部まで160cm程となる大型楽器。23本の絹の絃が張られています。
実演映像はこちら

 

琵琶(びわ)

正倉院には5面が伝わっています。この楽器が正倉院の時代から全く変わらない姿で伝えられ続けていたことが、敦煌琵琶譜の解読に役立ったそうです。こちらの写真は、現行の雅楽器(四絃琵琶)。本曲では、復元された五絃琵琶も使用します。

 

鉄絃箏(てつげんそう)

現行の雅楽の箏と同型で、やや小ぶり。正倉院には破損した断片が4面以上確認されており、構造は現行の雅楽器とは異なります。正倉院には絹絃も残っていますが、音色を中国の古箏に近づける意図から金属絃を用いています。

 

阮咸(げんかん)

正倉院には2面が伝わっています。細い撥か指で弾いたとされています。この楽器を好んだとされる竹林七賢の一人、阮咸にちなんでこの名前になりました。
実演映像はこちら

 

方響(ほうきょう)

音階に調整した長方形の金属片を枠に吊るした大型楽器。金属片を打って音を鳴らします。正倉院には10cm~15cmの9枚の鉄片が残っています。
実演映像はこちら

 

磁鼓(じこ)

正倉院の「三彩鼓胴」の復元品。床に置き、両手に撥を持ち、両面を打って奏します。(国立劇場蔵)

 

ちなみに、上記の楽器のオリジナルの画像を、正倉院ウェブサイトで見ることができます。

 

これらすべての古代の楽器が舞台上に並ぶ見た目は壮観ながら、華やかだけでない、どこか懐かしい音色が魅力。今回は初めて、コンテンポラリーダンスを交えて上演します。

なかなか観られない貴重な機会、8月5日はぜひ横浜能楽堂にお運びください!

 

*8/5 横浜能楽堂「中締め」特別公演 第1回「芝祐靖の遺産」の詳細はこちら

 

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